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 松江町一丁目 龍神の山車について

私たちが川越まつりで乗せて頂いている松江町一丁目の山車について解説させていただきます。


松江町一丁目 龍神の山車は、もとは屋台形式の山車でしたが、改造を重ね現在の形となっています。
戦後に製作された山車ですが、中高欄には江戸期に作られた一対の龍の彫刻が組み込まれており、唯一 川越市より有形民族文化財の山車として指定を受けています(※)。


※このほか、江戸〜大正期に製作された10台の山車が埼玉県より有形民族文化財に指定され、7台の山車が歴史文化伝承山車に登録されています。                

 龍の屋台時代

昭和25年に製作が開始され、翌 昭和26年の川越まつりに初参加しました。
屋台型の山車で、廻り舞台、前輪に梶が付く四つ車。欄間仕立ての前に小さな唐破風屋根が二つ付く珍しい形状が特徴となっています。
設計は町内の大工 奥山竹三郎氏。製作に当ったのは、同じく町内の大工 清水登喜三氏、数野友次郎氏、岡部松二氏、吉川啓助氏、金子寅吉氏、そして設計者の奥山氏の6名。山榮次氏も欄干部分などに関わったそうです。

松江町一丁目(下松江町)は、氷川神社の氏子域の最南端に位置していますが、山車の中高欄 左右にある昇り龍・降り龍の彫刻は、かつて祭礼の際、町内街道脇に立てられた大幟の提灯掛けの化粧として用いられていたもので、嶋村圓哲(江戸期)の作といわれています。一対の唐破風小屋根とともにセットで町内に保存されていたものがそのまま屋台に組み込みこまれました。

屋台型の最終的な完成は昭和30年とされ、以降30年以上にわたり川越まつりにて曳き廻されました。当時、周りからは「龍の屋台」と呼ばれていました。
 
その後、昭和61年の川越まつりにおいて、廻り舞台となる上層部が回転不能となる大損傷を負ってしまい、これが山車への改造の大きな転機となりました。
この頃、一番街では電線の地中化工事が完了しており、他の山車が人形を高々と上げて蔵造りの街並みを曳行される姿を見るにつけ、二重鉾の山車を曳きたいという町民の思いは一段と強くなり、「龍の屋台」は修理ではなく本格的な山車への大改造へと進んでいきました。「龍の屋台」時代は幕を閉じ、「龍神の山車」誕生を迎えます。

  
1)昭和32年(1957年) 囃子は角泉囃子連 2)
昭和45年(1970年) 囃子は藤間囃子保存会


3)昭和47年(1972年)頃 お隣り 松江町二丁目 浦島太郎の山車(手前)との曳っかわせ

              
                 4) 昭和57年(1982年)頃 屋台の全景
  
       
         5) 昭和60年(1985年)頃 囃子は松龍會囃子連

       
         6) 昭和60年(1985年)頃 三番叟の山車(手前)との曳っかわせ

7) 昭和52年(1977年)当時の山車一覧表
 
当時は山車一覧表に掲載されていないという少し悲しい時代でした(備考で触れられています)

 1) 、5)  :出典元 「川越祭り」(言叢社)
 3)       :出典元 「川越まつり (市制50周年)」(川越市)
 4)       :出典元 「川越まつり (市制60周年)」(川越市)
 6)       :出典元 「埼玉'03 るるぶ」(JTB)
 7)       :出典元 「川越祭」(川越地方史研究会 1977発行)

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 龍神の山車への改造

昭和63年 二重鉾の山車へ大改造。
屋台時代の流れを汲み、各所に龍の彫刻が配される。人形は龍神で、作者は川崎阿具。人形に掛けられている面は、能 「春日龍神」の「黒髭」で、横浜の能面師、岩崎久人の作。
大改造された山車は、当初、昭和63年の川越まつりで披露を予定していましたが、昭和天皇の体調を気遣う自粛により同年のまつりは中止となり、翌 平成元年の川越まつりでお披露目となりました。
平成10年、市指定有形民俗文化財の山車となっています。

                
           平成18年(2006年) 川越まつりにて


    昭和63年(1988年) 山車への改造に合わせて新調された水引幕


     平成元年(1989年) 山車への改造後初めての川越まつり


 
     江戸期に作られた龍の彫刻 (左が 昇り龍、 右が 降り龍)

(拡大写真)
 
         彫刻下の木札には「彫工 嶋村」と書かれている

      
    一対の龍が納められていた箱蓋墨書 「文政十年(1827年)龍入」

        車輪
改造の際、化粧板には、彫刻が施された(上枠は龍、下枠は波千鳥)。
下回りに関しては、せいご台の四隅に装飾が加えられたものの、殆ど手が加えらておらず、屋台時代の面影を残しており、車輪は他の山車に比べ少し大きな造りとなっています。

 
              せいご台の面の彫刻
 町名等をデザイン化した文字を使った山車が多い中、面の彫刻は珍しいです。
      ※写真をクリックすると面が切り替わります(全10種)。


 
    龍神の人形と黒髭の面        龍神と四方幕に施された龍の刺繍

 四方幕
  
      (正面)             (右側面)

  
      (背面)             (左側面)

          
                 着付けの様子
            (赤毛の間から龍神の自毛(黒髪)が見えます)

              
       
              上層鉾と人形のせり出し
          

           二つの唐破風小屋根と正面の龍




              文化財を示す正面の木札

         
           松江町一丁目の緑色を基調とした着物と手拭い
   (着物は、龍神の山車への改造に合わせて、現在のデザインとなりました)


                   
            山車蔵(町内稲荷神社敷地内)


龍神の山車への改修には、凡そ三千万円を要したと言われています(人形を除く)。
町内自治会館に掲示されている寄附一覧を見るに、寄付金の合計額は二千五百万円を優に超えており、改修費の殆どは町民からの山車改修に関わる寄付金で賄われていたことがわかります。
当時はバブル経済絶頂期であったとは言え、地元住民の負担の大きさには驚かされますが、それ以上に山車改修に向けた町民の強い意気込みを感じ取ることができます。
先人が大切に保存してきた文化遺産(一対の龍・唐破風の小屋根)を組み込むという発想をもとに、終戦からわずか5年という時期に戦後復興の象徴として山車の建造に取り組み、昭和の末期に龍神の山車へと発展させたわけですが、旧十ヶ町のような古くからの豪商がいる町ではないため、まさに町民が一体となって育て上げた山車と言えるでしょう。

  
            自治会館に掲示されている寄附者一覧
            ※個人名・団体名は抹消しています。



          
       平成23年(2011年) 川越まつりポスターカレンダー
            龍神の山車が中央に配置された



                      

 令和の大改修

昭和63年(1988年)に行われた屋台から山車への改修以来30余年ぶりの大改修。
令和2年(2020年)に着工し、令和4年(2022年)3月に完成。検討開始から数えると完成まで約10年の歳月を費やしたそうです。
この改修では、屋台から山車への改修の際置き去りにされ、さらに長年の曳行で強度に不安があった足回りの強化(車輪の新調や轅(ながえ)の大型化)、老朽化が進んだ回転台をはじめとした多くの部材の新調、漆仕上げ、そして山車を解体して修理できるようにするために伝統工法が取り入れられました。
施工は、末広町高砂の山車の大改修も手掛けた静岡県掛川市の宮大工 飛鳥工務店。


・足回りの強化(轅の大型化)

 (改修前)
 

 (改修後)
 
               


・伝統工法の一部

 (改修前)       (改修後)
  



 

 

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